みくに式ダウナー系三国志ブログ。
どうも。蜀野です。
吉川三国志やレッドクリフなどでは、ちょっと間抜けなキャラとして
描かれている魯粛ですが、実はなかなかの策士だったのではないかと
気付いてしまいました。
(例によって、以下の文は個人的な見解です。)
周ユの死後、呉の大都督となった魯粛は、劉備との領土問題を
武力で解決しようとはせず、粘り強く話し合いをしました。
魯粛は、戦によって劉備と呉の双方の力が弱体化することは
魏を利するだけであるということを、認識していたと思われます。
つまり魯粛には、劉備に蜀を取らせ、その後平和的に荊州を返還してもらい、
三国鼎立を成立させることによって呉の安定を図ろうという
戦略構想があったのではないかと思うのです。
ところが、魯粛が死んで呂蒙が大都督となると、呉は荊州を巡る領土問題を
武力で解決しようとしました。また、揚州北部に突出した魏領である合肥に対して
執拗に出兵を繰り返します。
このことから、
・孫権は中国全土を視野に入れた展望を持ってはおらず、
部分的な領土的野心を持つに過ぎなかった。
・魯粛は三国鼎立の構想を持ち、それを実現するために
孫権を抑え込んでいた。
ということが推測できると思います。
中国第二の勢力が、最大勢力と第三の勢力との両方に対して戦を仕掛けると、
いったいどうなるか。魯粛は、その愚かさを十分に理解していたんだと思います。
吉川三国志やレッドクリフなどでは、ちょっと間抜けなキャラとして
描かれている魯粛ですが、実はなかなかの策士だったのではないかと
気付いてしまいました。
(例によって、以下の文は個人的な見解です。)
周ユの死後、呉の大都督となった魯粛は、劉備との領土問題を
武力で解決しようとはせず、粘り強く話し合いをしました。
魯粛は、戦によって劉備と呉の双方の力が弱体化することは
魏を利するだけであるということを、認識していたと思われます。
つまり魯粛には、劉備に蜀を取らせ、その後平和的に荊州を返還してもらい、
三国鼎立を成立させることによって呉の安定を図ろうという
戦略構想があったのではないかと思うのです。
ところが、魯粛が死んで呂蒙が大都督となると、呉は荊州を巡る領土問題を
武力で解決しようとしました。また、揚州北部に突出した魏領である合肥に対して
執拗に出兵を繰り返します。
このことから、
・孫権は中国全土を視野に入れた展望を持ってはおらず、
部分的な領土的野心を持つに過ぎなかった。
・魯粛は三国鼎立の構想を持ち、それを実現するために
孫権を抑え込んでいた。
ということが推測できると思います。
中国第二の勢力が、最大勢力と第三の勢力との両方に対して戦を仕掛けると、
いったいどうなるか。魯粛は、その愚かさを十分に理解していたんだと思います。
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